Saturday, June 29, 2013

終着駅シリーズ151:沢辺(’07年01月03日撮影)

 栗原電鉄(くりはら田園鉄道)の途中駅の沢辺です。
 同駅は’21年12月20日に石越−沢辺駅間が開業して終着駅となりました。その後’22年12月17日には岩ヶ崎まで延長開業して終着駅の座をおります。
 しかし同駅は同線唯一の交換施設があり、JRバスや東日本急行・ミヤコーバスなどが仙台から直通で乗入れるなど、地域の結節点を担っていましたが、同駅の’07年03年31日の廃止でそれらの乗り入れはなくなり、いつの間にか駅舎も撤去されています。


○’09年05月03日撮影
 駅舎内には立ち入れませんが、往時の面影を留めています。しかし、駅名標は既に外されています。
 

○’10年04月30日撮影
 駅舎が撤去されています。かつての駅前広場は無断駐車の巣窟になっています。
 
○記念碑(’10年04月30日撮影)
 近年の廃駅で、よく見かけるこの記念碑。なんだか墓石みたいで気持ち悪いですね。

Sunday, June 23, 2013

終着駅シリーズ150:塩原温泉(’10年05月08日撮影)

 JR関東バスの終着駅の塩原温泉駅です。かつての国鉄の自動車線のバス駅です。
 旧国鉄も民営化されて久しくなり、特に自動車部門の整理が厳しく、このような往時の面影を残すバス駅は少なくなってきました。ここ塩原温泉駅は塩原本線(那須塩原駅−塩原温泉)、日塩線(塩原温泉−鬼怒川温泉駅、上三依塩原駅)の路線網を持つバス駅でした。現在では塩原本線の那須塩原駅−塩原温泉間を残し、それ以外の路線はJRバスとしては全て廃止となっています。このうち日塩線の塩原温泉−上三依塩原温泉口駅間の路線は那須塩原市営バス(ゆ〜バス)の路線となり、運行は引き続きJR関東バスで運転されています。またJR化後新宿駅新南口からのJR関東の高速バスがこの駅まで乗入れるようになっています。
 1922年の(改正)鉄道敷設法には、”三十三、栃木県今市ヨリ高徳ヲ経テ福島県田島ニ至ル鉄道及高徳ヨリ分岐シテ矢板ニ至る鉄道”、”三十三ノ二、栃木県上三依ヨリ西那須野ニ至ル鉄道”として塩原本線のルートが掲載されていて、それに先行して自動車線として整備されたものであることがわかります。
 時は流れて野岩鉄道、会津鉄道、東武鉄道矢板線は開通(一部はそして廃止)されましたが、この塩原本線のルートについては鉄道としての建設はなく今に至っています。
 駅にはかつてみどりの窓口があったようですが、今では営業所としての機能も廃止されています。


○駅外掲載の路線図
 駅外に掲載されている、観光マップを兼ねた路線図です。国鉄バスの文字が消されていますが、かつての路線網が全て掲載されています。なつかしいですね。
 

○駅舎の中
 駅の内部の様子です。かつてあった乗車券類の発売窓口は閉鎖になっています。高速バスの乗車券はどこで買うのだろう?
 
○駅内掲載の運賃表
 駅舎内に掲載の運賃表。紙が貼られていますが、表示されている範囲が現在のJRバスの路線です。

Saturday, June 15, 2013

終着駅シリーズ149:三河田原(’10年08月11日撮影)

 豊橋鉄道渥美線の終着駅の三河田原です。
 1924年6月10日に神戸−田原(現在の当駅)間が 渥美電鉄の駅として開業して終着駅となりました。その後1926年4月10日にはこの先の黒川原まで開業しています。しかしその後同電鉄は資金難からその先の区間の延長を断念することになります。
 その一方で、1922年の(改正)鉄道敷設法に”七十、愛知県豊橋ヨリ伊良湖岬ニ至ル鉄道”として掲載されることになる。そして、これ以降は同区間を国鉄の路線として整備することになった。整備理由は、この先の沿線には軍需施設が点在すること、そして伊勢神宮への短絡ルートとしての期待であったという。
 その後黒川原〜三河福江の区間では実際に路盤整備が終わり、三河福江駅の駅舎も完成し開業直前までこぎ着けたらしく、さらにその先の堀切までの用地買収が進んでいた。しかし戦局の悪化から’44年06月05日には三河田原〜黒川原間が不要不急路線として休止となってしまう。
 結局、休止区間は戦後になっても豊橋鉄道には譲渡されす、’54年11月20日には名古屋鉄道の路線として廃止になっている。

○三河田原駅構内(黒川原駅方向)
 現在の終点の三河田原駅構内。構内の線路配置はこの先にも路線があったことを伺わせるものとなっている。この構内配線も現在は駅付近の再開発工事の影響によって撤去されてしまい、もう見る事が出来なくなっています。再開発は線路の1面1線のホームを残して整理され、残った用地を駅前広場と幹線道路の再整備に充て新しい駅舎を建てるとのこと。
 

○三河福江駅付近(伊良湖岬方向)
 伊良湖岬へのバス移動中に撮影。筆者この区間の工事が実際に進められていたことがあるとは知らなかったので、偶然に?撮影。
 三河福江駅予定地はこの写真の手前約200メートルの消防署のところだったとか。
 
○道の駅、伊良湖岬
 鉄道敷設法が目指していた伊良湖岬。もし、ここまでが国鉄線として開通していたなら、現在の交通体形はまた違うものになっていたのであろうか?

Saturday, June 08, 2013

終着駅シリーズ148:八尾南(’10年08月12日撮影)

 大阪市営地下鉄2号線(谷町線)の終着駅の八尾南です。ぶっきらぼうにものを言う市長のおかげで、すっかり有名となった八尾空港が徒歩圏内にあります。
 駅は八尾市内にありますが、この大阪市営地下鉄の駅と車庫があります。谷町線本来の計画は遠大で北は高槻駅付近から南は富田林までの延伸が提唱されています。しかし、大阪市外の区間を延々と延長することになることから?その調整は進んでないようです。
 ’80年11月27日に天王寺駅から10.5kmの延長開業でこの地が終着駅となりました。八尾市の南部は近鉄八尾駅、JR八尾駅からも遠く比較的交通不便な地域であったところの改善に貢献しています。八尾市内には大阪市営バスの路線も乗入れていますが、この駅の周辺はそのサービスエリアではありません(最寄りの路線は、2系統が市境の長吉長原東3丁目で終点となっています)。

Saturday, June 01, 2013

終着駅シリーズ147:志村橋(’10年07月04日撮影)

 東京都電志村線の終着駅だった志村橋です。
 都電41系統はここ志村橋から巣鴨車庫の間を結んでいました。現在の地下鉄都営三田線にほぼ並行する路線ですが、同線の志村坂上から北側の区間ではこれとは並行せず、ここ志村橋にて終点となっていました。
 写真の左側の交差点の先には緑地があり空き地となっている区画があり、ここがかつての都電(都営バス)の志村車庫の跡地です。この撮影時には志村警察建設予定地との看板が出されていましたので、現在はどうなっているのでしょう。
 都電の志村線は、’29年05月27日に最初の区間として、巣鴨車庫–下板橋間が開通し、その後板橋本町、志村坂上と延長開業を続け、’55年06月10日には最後の区間となる、志村坂上–志村橋間が開通しています。そして’66年05月28日には全線で廃止となっています。